用語の易しい解説

 
三因仏性(妙教 平成28年3月号)
《一切衆生悉有仏性》

 世の中には、凶悪な殺人犯や校滑な詐欺師等、自分の欲望を振りかざして他人や社会に危害を加える人が数多くいます。
 一見すると、このような人達は、人間としての良心など持ち合わせていないようにも思えます。しかし、涅槃経には、
「一切衆生、悉く仏性有り」
と説かれ、一切衆生に仏性(仏の命・仏界)が具わっていると明かされています。
 正しい仏法においては、悪人も苦悩に喘ぐ衆生の一人であり、悪事を懺悔し、正しい仏道修行に励むならば、自身の仏性を顕し、成仏できることが説き明かされているのです。

《三因仏性とは》
 仏性には、正因仏性・了因仏性・縁因仏性の三種があり、これを三因仏性と言います。因とは、成仏の要因という意味です。
 中国の天台大師は、
「法性実相は即ち是れ正因仏性。般若観照は即ち是れ了因仏性。五度の功徳、般若を資発するは即ち是れ縁因仏性なり」(法華玄義・玄義会本下六一七)
と述べています。すなわち正因仏性とは、一切衆生に本来具わっている仏の命(法性・仏界)です。了因仏性とは、正因仏性を照らし出す智慧です。そして縁因仏性とは、その智慧を発揮することを助ける修行です。
 天台大師は『金光明経玄義』等において、正因仏性は土の中に金が埋まっている状態であり、了因仏性はその金の存在を知ることであり、縁因仏性は草や土を除き、実際に金を掘り出すことであると譬えています。
 このように、たとえ正因仏性を具えていても、顕さなければ役には立ちません。それを知る智慧(了因仏性)と、正しい修行(縁因仏性)が具わって、初め.て仏性を顕し、成仏することができるのです。

《仏道修行の因と果》
 三因仏性は、真理の面から言えば、空・化・中の三諦となります。
 正因仏性は、すべての存在に一念三千の理が具わっているので中諦となり、それが縁によって様々な姿として現れるので、縁因仏性は化諦となります。了因仏性は、その事々物々の平等性と正因仏性を悟る意義から空諦となります。
 また『天台四教儀』には、
「慧身(報身)は般若の徳で、了因仏性を開発したもの。妙法身は法身の徳で、正因仏性を開発したもの。応一切(応身)は解脱の徳で縁因仏性を開発したもの」(取意)
とあります。
 すなわち、三因仏性が開発された仏果とは法・報・応の三身、法身・般若・解脱の三徳のことです。また煩悩・業・苦の三道は即、三徳となります(左図を参照)。

三因仏性 三諦 三身 三徳 三道
正因仏性 中諦 法身 法身 苦
了因仏性 空諦 報身 般若 煩悩
緑因仏性 仮諦 応身 解脱 業

《本有の三因仏性》
 一切衆生が本来、三因仏性を具えていることを「本有の三因」と言います。
 日蓮大聖人は『八宗違目抄』に、
「法華経には本より三因仏性有り」(御書五一五)
と示され、法華経において初めて本有の三因仏性が明かされたことを御教示されています。
また『観心本尊抄』には、
「金●論に云はく『乃ち是一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す』等云云」(同六四六)
と、妙楽大師の釈を引かれ、法界がことごとく三因仏性を具えることを御教示されています。

《仏性は妙法唱題によって顕れる》

 大聖人は『聖愚問答抄』に、
「夫妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。仏性とは法性なり。法性とは菩提なり」(同四〇六)
と仰せられ、一切衆生に具わる仏性とは妙法蓮華経であると御教示されています。
 ただし『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
「三因仏性は有りと難も尊知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はる、が故に縁と云ふなり」(同一四二六)
と仰せのように、末法の凡夫である私達は、自分の知恵や能力では、自身に具わる三因仏性を知ることも、発揮することもできません。
『法華初心成仏抄』 に、
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。(中略)三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云ふは是なり」(同一三二一)
と仰せのように、私達は、最勝の善知識である大聖人が顕された本門戒壇の大御本尊を信じ、真剣に題目を唱えることにより、大御本尊と境智冥合して我が身の三因仏性を顕し、即身成仏することができるのです。

《人々の仏性を顕す折伏に精進しよう》
 大聖人は『松野殿御返事』に、
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり」(同一〇四六)
と仰せられ、また『御義口伝』には、
「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は末法の不軽菩薩なり」(同一七七九)
と御教示されています。
 不軽菩薩は、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる釈尊の前世の姿であり、威音王仏の滅後の像法時代に出現し、すべての人に仏性が具わっているとして、人々を礼拝しました。そのなかで、増上慢の人々から迫害を受けましたが、屈することなく礼拝行を貫きます。迫害した人々は、その罪によって千劫もの間、無間地獄に堕ちましたが、逆縁によってのちに再び不軽菩薩の教化に浴し、救われたことが説かれています。
 大聖人は、この不軽菩薩の振る舞いこそ、末法における折伏行の姿であると御教示されたのです。
 御法主日如上人猊下は、
「我々は、この不軽菩薩の振る舞いをとおして、末法の弘通の方規とは折伏であり、この折伏によって順縁の衆生はもちろん、たとえ逆縁の衆生といえども必ず救っていけることを銘記し、今こそ一人ひとりが、一切衆生救済の最尊の慈悲行である折伏に全力を傾注して励むことが肝要であります」(大日蓮・平成二四年六月号)
と御指南されています。
 私達が慈悲の折伏を行じて本門戒壇の大御本尊の御もとに導く以外に、末法の人々を救う方法はありません。
 私達はこのことを銘記し、全力を傾注して折伏に精進してまいりましょう。
三因仏性
 三因仏性(さんいん ぶっしょう)とは、仏となるための三つの要因のことで、正因(しょういん)仏性・了因(りょういん)仏性・縁因(えんいん)仏性をいいます。
 正因仏性とは、一切衆生に本来具(そな)わっている真如(しんにょ)の理(り)のことです。了因仏性とは、正因仏性を自覚する智慧のことです。縁因仏性とは、智慧を発現(ほつげん)するための助縁(じょえん)となる善行(ぜんぎょう)をいいます。
 天台大師は、三因仏性を土の中に埋蔵(まいぞう)された金(こがね)に譬(たと)えています。土の中に金の塊(かたまり)が埋(う)まっている状態を正因仏性に譬え、金の蔵(ぞう)することを智慧によって知ることを了因仏性に譬えます。そして、雑草(ざっそう)を取り除(のぞ)き、土を掘(ほ)って金を取り出す作業を縁因仏性に譬えています。
 理仏性としての正因仏性だけ具えていても、土の中の金のように用(よう)をなしません。正因仏性に、用きとしての縁因・了因の仏性が具わって、はじめて成仏の因となるのです。
 この三因仏性は、真理の面からいえば、空仮中(くう け ちゅう)の三諦(さんたい)となります。正因仏性は、宇宙法界(ほうかい)のすべての事象(じしょう)と存在に、十界互具(ごぐ)・一念三千の中道(ちゅうどう)の理が具(ぐ)しているので中諦(ちゅうたい)となり、それが縁によって仮(か)りに色々な形で現実の姿として表われるので、縁因仏性は仮諦となります。覚(さと)りの智慧である了因仏性は、それら事々物々に対して皆、正因仏性を覚るという平等性の意義から空諦(くうたい)となります。
 そして、空仮中の三諦は、円融(えんゆう)三諦といわれるように、それぞれが即中(そくちゅう)・即仮・即空であり、渾然(こんぜん)一体となって、衆生の一心の上に妙法蓮華経を悟ることを説くのです。
 このような法理と修行は、一往(いちおう)は天台の法華迹門(しゃくもん)の立場での教えですが、再往(さいおう)大聖人のご覧(らん)になった法華経の本門の上からするならば、爾前権教(にぜん ごんきょう)はもちろんのこと、迹門さえも三諦の円融は説かれていないと判(はん)ぜられます。したがって、爾前迹門には三因仏性が円満に明かされていないことになるのです。
 法華経の本門の一念三千が説かれたことにより、はじめて三因仏性が法界の一切の森羅万象(しんら ばんしょう)に本然的に具わり、しかも、正因に縁・了を具(ぐ)し、縁因に正・了を具し、了因に正・縁を具すという融妙(ゆうみょう)不可思議な関連(かんれん)が明かされました。ゆえに、法華経の本門は、本来本有(ほんぬ)の三因仏性を確立し、在世(ざいせ)の衆生の成仏を決定(けつじょう)させた教法(きょうほう)となるのです。
 日蓮大聖人は『三世(さんぜ)諸仏総勘文(そうかんもん)教相廃立(はいりゅう)』に
 「因とは一切衆生の身中に総の三諦有りて常住不変なり。此(これ)を総じて因と云ふなり。縁とは三因仏性は有りと雖(いえど)も善知識の縁に値(あ)はざれば、悟らず知らず顕(あら)はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり」(平成新編御書 一四二六ページ)
と仰せです。
 末法愚鈍(ぐどん)の凡夫の私たちは、理の上では三因仏性が具わっても、その実際の用きを自身の智慧で表わすことは絶対に不可能です。
 「善知識」たる御本仏日蓮大聖人が御一身に証得(しょうとく)あそばされた仏法の根源の悟り、本門寿量品の文底(もんてい)下種・事の一念三千の御当体(ごとうたい)である本門の本尊を信じ、題目を唱えることにより、凡夫身(ぼんぶしん)の上に本有の三因仏性が顕われ、即身(そくしん)成仏することができるのです。